丸谷才一・山崎正和『日本史を読む』

日本史を読む

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頼長退場前に最後の落ち穂拾い。
10年くらい前だったか、五味文彦の『院政期社会の研究』を勧めてくれた友人が、少し後にこれも読むといいよと教えてくれた本。こっち先に教えてくれよーーー(爆)。『院政期〜』読まなくても、この中の40ページでまるわかりの院政期社会なのでした。
全てが丸谷氏と山崎氏の対談で、日本史のややこしい部分が次々と紐解かれていきます。ミステリー読んでるみたい。その時代には全然関係なさそうな人物や事柄がぽーんと投げ込まれても、ちゃんと収束するとこが素晴らしい。湖面に石を投げ入れると波紋が広がるけども、石が落ちるべきとこに落ちれば波紋は消えて静かな湖面に戻るでしょう?。そんな感じ。
各章にはこの対談の準備として読まれた文献が記載されてて、既読*1のものがあったりするとなんだか嬉しい。
各章解説する時間はないので、面白いと思った文章を少し抜粋。

丸谷「だって、西洋人は二十世紀になって翻訳が出て初めて『源氏物語』がわかったわけだから」
山崎「だから、本当に……漢民族が民主主義に走らないでいてくれたら、アジアはもっともっとおもしろい世界だったと思いますよ」
丸谷「そうなんですね。つまり、唐のような国際的な帝国がもっと続けばよかった」

丸谷「ところが王は、政治に関しては全責任を負うけれども、そのつらさの代償として数多くの妻を持つことができる(笑)、というのがありました。つまり、性的放縦は権威と権力の象徴として絶好のものです。上皇が、自分の愛人である天皇の后と関係しつづけるというのは、上皇が一国に対して、あるいは一つの宮廷に対して、上皇天皇とのどちらが上位にあるかを示すのに絶好のことでありました。それは、いわば神々に仕える王に対して、神々のいない王の優位を誇る行為だったのです」

山崎「平安朝の貴族の日記というのは実に即物的でリアリズムですね」
丸谷「漢文だからね。和文で書いたらああはならない」
山崎「それにしてもね(笑)。いまでもそういう節があると思うのは、やんごとない先祖を持ったご子孫、名家の息子というのは、わりあいリアリストで、下々が口にできないようなことを平気でいいますよ」
丸谷「お風呂に入って前を押さえないのが身分が高い證拠と言いますね。下関の何とかいう宿屋の風呂番は東郷元帥が前をしっかり押さえるのを見て、ああこの人は下賤の生まれだな、と思ったという(笑)」

山崎「これは結果論ですけど、後醍醐天皇の敗北そのものが京都を大きくしたと言える。あまりにも観念的な都市主義者であったために敗北するんですが、敗北した結果、南朝というものを立てて吉野に頑張るわけですね。すると、対抗者であった尊氏は、ここは日本の古典的伝統に従わざるをえないと考えます。言うまでもなく、権威と権力の二分です」

山崎「義経の時代と正成の時代、時代そのものが同じ構造をもってないかと考えてみたら、うまく言えそうなんですよ。つまり、後醍醐から義満までが都市の独立の時代であるとすると、その萌芽を作ったのは平清盛後白河院であった。それぞれ両者相敵対しているところまで似ているんですけれども、要するに二人がやったことは、公家と武家という異質なものを都市のなかに共存させた」

  • 足利時代は日本のルネッサンス
    • 武士のエネルギーに満ちた足利時代
    • 日本の「生活史」の始まり
    • 旅する情報家・宗祇
    • 都市文化と貨幣
    • 権力と富が京都に戻って来た
    • 町衆−市民の成立
    • 乱世の中の文化の力
    • 「都市・京都」の成立と孤立
    • フロイスの目の正確さ
    • 歴史家と想像力
    • 【参考文献】

丸谷「いや、猥本という言い方は乱暴だけれども、いまの国文学者の解釈を見ていると、本当に読みが浅い(笑)。あれは、ほのめかしの言葉の連続で書いてあるわけだから、当時の人には、そのほのめかしがいちいちピシピシ身に迫る言葉だったわけでしょう。たから、大変な挑発力がある。そこのところを、いちいち上品に上品にとらなきゃと国文学者は思っているんですね。その上品さが東山時代に成立したわけです」
山崎「それは一條兼良の功績であると同時に、大失策であったかもしれませんね」
丸谷「そう、つまりゴシップ集ないしポルノとしての『源氏物語』と、幽玄の物語としての『源氏物語』、その両方を読む眼力を、これからの読者は備えなければならない」

丸谷「中国の天子が最高の官僚であるのに対して、日本の天皇は最高の神官であって、いわば政治の実務を他に委ねていっこうに構わない。天皇の権力は、上皇、摂関、征夷大将軍その他に委譲されて平気である。それから王権のしるしは、三種の神器という単なるモノであって虚器にすぎない。(中略)そういう形式を重んじる社会においては、大将としての影武者は代替可能のものであって、影武者が戦場で活躍すれば、それでもう大将軍は要らないという事態さえありうるんじゃないでしょうか。とすれば、敵をあざむくと同時に味方をあざむく影武者という設定は、日本人の精神の図式とかなり深く結びついているような気がするんですね」

丸谷「それが本当に厳しくなったのは、1612年の家康の禁教令からなんですね。とすると1612年までは日本でイエズス会演劇は、上演されていた可能性があると思う。そう考えてみると、出雲阿国狂言師三十郎がイエズス会劇を日本で見た可能性もあって、それでイエズス会劇的なもの、あるいは西洋演劇的なものが彼らの心を刺激して、日本の歌舞伎に火をつけたということもありうるのじゃないかと推定するんです」

      

丸谷「『忠臣蔵』は赤穂の塩で云々という説があるでしょう。あれだって正確かどうかは怪しいけれども、あのころのソフト騒ぎであるわけです」
山崎「あの『忠臣蔵』という芝居は、考えてみると東海道の旅を劇にした最初でしょう」
丸谷「事件は江戸に始まって、京都、赤穂でしょう。この三つがあって、ほとんど除外されているの大坂なんですね」
山崎「でも、天野屋利兵衛がいますよ」
丸谷「まあそれはともかく(笑)。そういう地理的なものを、実にうまく入れてるんですね。サント・ブーヴはバルザックのことを、「フランス中の重要な土地を全部小説に仕組んでいる。まことにずるい男である」と言ったそうだけれども(笑)、そういう意味であの『忠臣蔵』の作者はずるい(笑)。あれが東北の弘前なんかの事件だったら全然つまらないことになってしまう」
山崎「少なくとも山科閑居の場も書けないし、一力の場面も書けないわけで、興味半減する」

この文章を読んだ時、西村京太郎と山村美紗がウケる理由がわかった気がしました(笑)。あとシンデレラエクスプレス(古)が、なぜJR東日本でなくJR東海だったかということも(嘘)。

  • 遊女と留学女性が支えた開国ニッポン

丸谷「日本の文化史においては鄙に対する都の圧倒的な優位というのがあって、これが歴史を動かすかなりの要素になってきたわけです。菅原道真が太宰権帥に流されたのでなければ、道真が死んだとてあれほど怖い神になるということにならなかったかもしれない。(中略)左選でしかも、遠いところだからみんなの妄想に火がついて、御霊信仰になるわけですよね。それをはじめとして、都と鄙の格式の差は非常に大きい。したがって、文化の周辺部である薩摩、長州から中央部へ初めて来た下層武士たちは、中央の伝統とか文化とかを学ばなければならなかった。それは、女から学ぶのが手っ取り早かった。また、社会の変動のせいで、比較的上の階級の子女が花柳界に流れ込んでいた。(中略)それから、いったいに水商売の女の人を差別的に扱わないのは、先ほども山崎さんおっしゃたけれども、日本文化の伝統なんですね」
山崎「古い例は後白河法皇ですよね。神崎の遊女を読んで俗謡を習うのみならず、それを歌集に編んで『梁塵秘抄』を作った」
丸谷「もうちょっと古いのがあります。勅撰集に、遊女の作った和歌がかなり入っている」

  • 近代日本技術と美に懸かれた人びと
    • 実業の世界から茶人に
    • 日本の伝統としての観察者と鑑定家
    • ブルジョワジーがいた束の間の時代
    • 電子工業発達史
    • 奉公の精神とわがまま
    • 日本人の創造性
    • 【参考文献】
      • 熊倉功夫『近代数寄者の茶の湯』 河原書店 1997
      • 相田洋『電子立国日本の自叙伝』七巻 NHKライブラリー 1995-96

山崎「日本の場合は、ボスというのは大山巌将軍でなければならないわけです」

山崎「世阿弥にも弟子がいないんです。世阿弥の藝能論はほんとに独創的なものです。世界のどこに出しても、あの時期にあんなことを考えた人は一人もいない。ところが、彼の祖述者、継承者はいない。のみならず、作能までほとんど彼で終わるわけですよね。というわけで、ある業績を受け取って、そこから発展させる仕組みが日本にはない」

*1:★印。少ないけども。