NHKBSプレミアム 『軍師官兵衛』#6 “信長の賭け” 18:00〜18:45

録画済。


櫛橋左京亮(益岡徹)に合掌。
『敦盛』はここぞというときに使って欲しい。ベタベタだけども桶狭間とか本能寺とか。つーか近年稀に見るあかん『敦盛』でした(爆)。あと、土田御前(大谷直子)がこんなに出てくるのも珍しい。後々何かあるのかしら。たいした話はないはずなんだけど。
荒木村重田中哲司)再登場。剣先饅頭(餅かも)エピ付きで。

信長はほとんどあっけなく摂津を手に入れた。この国がその勢力圏に入ったのは奇術的なほどの政治的からくりによるもので、そのたねは足利義昭にあった。
(中略)
摂津にも戦国は存在した。さまざまの諸豪が出て、たがいに近隣を攻伐しあっていたが、この時期には荒木村重という、その父は牢人の分際だったらしい者が、摂津池田の城主に仕えたところから出頭し、茨木城や尼崎城など幾つかの城主を兼ね、義昭が岐阜へきたころには三好党に属していた。
この村重が、義昭の岐阜入りとともに、
「摂津は本来、天領でござれば」
という名目をたてて、義昭に属したのである。事実上は、信長に属したことになる。
以後、信長は村重を応援し、その摂津平定を応援し、やがて村重は、伊丹城池田城高槻城、茨木城、尼崎城、花隈城などの城をまたたくまにおさえ、かんじんの義昭が追放されたあとも、べつだん痛痒を感じることなく信長に付属した。
要するに、荒木村重という男のために、播州の諸勢力の側からいえば、あっというまに明石の境まで織田勢力が伸びてしまったことになる。
それまでは、
「岐阜の信長が、播州まで槍をとどかせるのは、竿で星をとるようなものではないか」といったふうな、のんきな見方が播州あたりでは通用していた。
それが、村重によって一変した。

司馬遼太郎播磨灘物語』上(講談社)“白南風”より抜粋

「まあ、運が良かったのじゃ」と村重。
そう、この乱世、己の才覚以前にとびっきりの運がないと。

織田家では、この時期、六人の司令官で軍事がきりまわされていたといえるであろう。(中略)柴田と丹羽は、織田家の譜代だが、他の四人は信長が地下からひろいあげて数千、数万を進退させる司令官にした。滝川は近江甲賀の人で流浪して尾張にゆき拾われたというし、明智光秀も牢人の境涯から拾われ、村重と同様、僅々六、七年で出頭し、こんにちの顕職についた。木下藤吉郎にいたっては、武士の子でさえなく、草履取りから這いのぼってきた男なのである。
織田家はいい家風だ」
と、村重がいうのはこのあたりだし、官兵衛が魅力を感じているのもそこであった。天下の人材に対してこれほど開放的な家がどこにあるであろう。
もっとも人間関係は力学に似ている。力学を無視した急速な出世というのはやがて歪を生み、こわれることが多いが、村重が肚の中でその点をどう思っているかは、官兵衛の側からは察しにくい。村重が五年後に信長の敵に寝返る運命になろうとは、このとき、官兵衛も、むろん当人でさえ、想像を越えた未来に属していた。

司馬遼太郎播磨灘物語』上(講談社)“白南風”より抜粋

村重が自慢気に官兵衛(岡田准一)に見せてた茶碗て“荒木高麗”?。大名物の“荒木高麗”って染付だけど染付じゃなかったような……。