録画済。
加古川評定の回。ま、だいたいあんな感じかと。ただ、田舎戦術の長講義は、実際は別所賀相(ベンガル)ではなく別所家重臣の三宅治忠という人物がやったらしいです(『別所長治記』)。治忠は、あとは、三木城落城時くらいしか出番がないと思われるので、省略されても仕方ないかな。
秀吉という、この怜悧な男は、中国入りよりも何よりも、いまや播州の平定そのものが困難なものだということがわかってきている。(中略)秀吉は、こういう場合の工作上手であった。攻略的工作のことを、この当時、調略といった。秀吉ほど調略に巧みだった男は織田家にもいないだろう。
(中略)
秀吉は、ここで調略をすべきだった。(中略)が、それをしなかったのは、その方面を官兵衛にやらせていたからでもあろう。官兵衛自身、播州人であるという事情通である上に、秀吉の見るところ、官兵衛にはその方面の才が、自分を越えるほどにあった。官兵衛も調略をつづけてきている。その努力の手前、秀吉が余計な口出しをしなかったということもある。
が、いま一面、秀吉は官兵衛にさえ秘めていた魂胆があった。
(むしろ、別所が織田氏にそむくほうがいい)
という、権略である。別所を武力で攻め、その城地を力ずくで剥ぎとって織田領にしてしまうほうが、信長の好みに適っていた。信長の天下経略の方針は、地方々々の既成勢力をなるべく味方にひき入れてその本領を安堵させるということでなく、それらを力で潰し、地を掃って織田氏の直轄領にしてしまおうというところにあった。