『演劇界』2013年3月号

演劇界 2013年 03月号 [雑誌]

演劇界 2013年 03月号 [雑誌]

いたずら好きなところは、ナオちゃん(勘九郎の長男・七緒八)がそっくりだわ。三十五日法要の時も、私を見つけると、おもちゃの刀を持ってポンポンって叩きに来るんです。人懐っこくて、丸くて、そういうところが勘三郎さんそっくり。
『志賀山三番叟』の口上の時にも言ったけれど、ナオちゃんの初舞台は見届けたいと思ってるんです。いつになるかはわからないけれど、それまではなんとしても頑張りたいの。それがここに仕えた勤めだと思うから

本誌 “小山三ひとりがたり 其の二十六” 勘三郎からの頼まれごと より抜粋

勘三郎との最初の出会いは四十四年前、勘九郎時代、それもまだ十四歳の時であった。昭和四十四年九月、国立劇場で私の補綴・演出による『蔦紅葉宇都谷峠』。按摩の文弥と悪党の提婆の仁三が父の先代勘三郎、お主のために文弥を殺す十兵衛が先代幸四郎(のちの白鸚)。
このふたりはライバル同士のうえ、当時長いこと東宝に行っていた幸四郎との八年ぶりの共演となったために、火の出るような迫力の舞台だった。しかも初演以来百十三年ぶりの通し上演で、ずっと出たことのない文弥内の場も復活した。これは文弥の姉が弟の出世のため吉原へ身売りをするという大事な場だが、ここで文弥の妹のおいちという役を勘九郎がやったのである。
その舞台稽古の間に、客席で見ている私のところにすっと勘九郎がやってきて、「先生、この僕の役は、あとどうなっちゃうんですか」と質問した。私はちょっとハッとした。実はこの作品のなかでは、この役がどうなったかは書かれていないのだ。そう答えたが、しかしこの子はこの場のセリフやしぐさをただ演じるだけではなくて、この人物の“人生”というものを考えているんだということを、感じ取った。そして、これはただ者ではないと……。これがこの天性の役者についての第一印象であった。はたしてその後の活躍は誰もが知ってるとおり。

本誌 “かぶき曼陀羅 67” 勘三郎との時間 河竹登志夫 より抜粋