メ〜テレ 『崖っぷちのエリー〜この世でいちばん大事な「カネ」の話』#4 21:00〜21:54

“恨ミシュラン”キタ━━━━(゚∇゚)━━━━ !!!!!

さて、一方の西原理恵子神足裕司コンビによる「恨ミシュラン」は、『週刊朝日』1992年9月25日号より連載がはじまった。新聞社系週刊誌では、すでに西原は1990年に『サンデー毎日』で四コママンガ付きコラム「怒濤の虫」の連載をはじめていたが、「恨ミシュラン」はそれ以上に彼女の名を一般に知らしめることになる。料理店をはじめとし、執筆者の二人が人気スポットとされる場所に押しかけては、容赦ない怒りをぶつけるというそのスタンスが大いにうけたのだ。ちなみに第一回のターゲットとなったのは、東京湾岸に出現した新スポット・天王洲アイルの第一ホテル・東京シーフォートだった。当時はバブルがはじけて間もないころだったが、バブル期に立案されたスポットが次々と実現化するなど、バブルの残滓はまだあちこちに見られた。「恨ミシュラン」は連載された二年間ずっと、それらのスポットとともに、それをもてはやすバブルな風潮に噛みつき続けたのである。そして「恨ミシュラン」で確立されたアポなし・突撃レポートという方法は、その後の西原作品のなかで大きな位置を占めることとなった。
(中略)
ところで、「恨ミシュラン」の単行本第一巻が刊行されたとき、ある雑誌の書評欄でライターの永尾カルビが、同作における西原理恵子の役割を王様を裸だと指摘する子供になぞらえつつ次のように書いていた。
サイバラの漫画が面白い」
連載開始時より評判であった。文章担当の神足裕司の立場はない。立場はないが、仕方ないのである。
「漫画4コマは文章100枚に匹敵する」
神足は連載1回目にしてそのことを悟ったに違いない。勝てないものを無理に勝ちにいかなかった神足は立派である。砂場で遊ぶ子どもを横目にベンチで編み物をする母親のように淡々とキャプション書きに専念した神足は情けないけど偉い。(『VIEWS』1994年1月26日号)

だが、いまにして思えば、西原と神足の立場はまったく逆だったのではないか。少なくともぼくには、あの作品における母親は神足というよりもむしろ、西原だったような気がしてならない。神足がどんなに気の利いたうんちくを交えて、理路整然と取材対象を批判しても−もちろんそこにはプロのライターとしての芸達者ぶりが十分に感じられるのだが−西原のマンガの前では少年が屁理屈をこねくりまわしてるようにしか読めないのである。結局、「母」たる西原に、神足「少年」は軽くあしらわれるしかないのだ。そもそも直感で行動する母に理屈は通用しないのだから。そう考えると、自分の周辺にいる人々をことごとくキャラ化してしまうのも、やはり母のなせる技ではないか、という気もしてくる。

ユリイカ』2006年7月号“特集・西原理恵子”(青土社)より抜粋/文・近藤正高