『ドリアン・グレイの肖像』@世田谷パブリックシアター(14:00〜) 1F-B-15

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作:オスカー・ワイルド
構成・演出:鈴木勝秀
出演:山本耕史須藤温子伊達暁米村亮太朗三上市朗加納幸和

耽美じゃねえじゃん。続きは後日。


9/7 23:50 追記
耽美というのは醜悪な腐臭と極上の甘露の混在からなる背徳美だと思ってるんだけど。例えば、腐りかけの水密桃みたいな(わかりにくいな/汗)。地肌の茶色い染みを指で探るととろりと流れる蜜。新鮮な硬い桃より遥かな甘美であろう極上の蜜汁。ドリアンにはそんなものを感じてるんだけど。それがこの舞台はなんとあっさりなことか。なんかね、青い林檎が中から虫に食われて食い尽くされて、紅く甘くなる前にぽとりと地面に落ちたような……(ますますわかりにくい)。
まあとにかく、原作世界を愛するものとしてはかなりの拍子抜け。ドリアン別人ですもん。あれがドリアン・グレイだというのならあえて「耽美」を強調しないほうがよかったよ、スズカツさん。
約2時間の舞台では削らざるをえないあるいは変えなければならない部分が出てくるのはしょうがないけど、ドリアンがジェイムズ(シビルの弟)を直接殺したのにはびっくり。これ結構なキモじゃないかと。

枯れ草の茂みから(中略)一匹の兎がとびだした。(中略)ジョフリー卿は銃を肩にあてたが、兎の動作の優美さにはなにかしらドリアン・グレイを惹きつけるものがあった。かれは間髪をいれずに叫んだ。「撃つな、ジョフリー。逃がしてやれ」

「(死体の顔に)掛けてあるものをとってくれ。顔が見たいのだ」入口の柱につかまって身を支えながら言う。男がハンカチを外すと、ドリアンは前に出た。歓喜の叫びが脣からほとばしった。茂みのなかで射殺された男はジェイムズ・ヴェインだったのだ。
かれはそこに立ったまま、しばらく死体を見つめていた。馬に乗って家路についたかれの眼には涙が一杯に溢れた。自分の身が安全であることを知っての嬉し涙だった。

兎を逃がす気紛れに歓喜の叫びだよ。嬉し涙だよ。悲哀なんぞかけらもない醜さ。
あと、ラストね。

なかにはいって見ると、壁には主人の見事な肖像画がかかっていた。それは、召使いたちが最後に眼にした主人の姿そのままであり、そのすばらしい若さと美しさは、ただ驚嘆を誘うばかりだった。床の上に、夜会服姿の男の死骸が横たわっていた。心臓にナイフが突き刺さっている。老けやつれ、皺だらけで、見るからに厭わしい容貌の男だった。指環を調べてみてはじめて、人はこれが何者であるかを知った。

肖像画の魂が解放されて肖像画は元の美しいドリアンに。逆に生身には肖像画に封じ込められていた醜い魂が戻ってくる。自由を求めて平和を求めて自分の魂を抹殺しようとして失敗する。残ったのは醜い死体と麗しい肖像画。この対比が面白いのに。舞台のあの状態でそれは表現されてたの?。死んだドリアンの顔そのまんまでしょ?。原作と同じだと言うのなら、その変化をヘンリー卿はなんとも思わなかったんだろうか。彼は予見してたとでも言うの?。ドリアンに指環を返して意味深に終わってもらってもねえ。あれじゃ、指環が全ての元であって、肖像画の役割が無いに等しいんじゃないかと思ったり。
私はスズカツさんのストレートって嫌いじゃないんだよ。『レインマン』とか『トーチソング〜』とかとっても良かったし。ただね、はっきり言って当たり外れが激しい。で、今回は外れなのでした(爆)。いや外れというのとは違うかな。私の中にある『ドリアン・グレイの肖像』とは全く違う『ドリアン・グレイの肖像』。こんなに哲学的で臭気の無いあっさりのドリアンなんて、新解釈ではなくもう別物。原作への思い入れが強すぎるとこういうことになっちゃうのか*1。お互い様と言われればそれまでだけど(笑)。
今回の『ドリアン・グレイの肖像』を原作とは別物として、単に舞台作品として評価するなら、なかなかの秀作だったと思います。とても良いカンパニーでした。その辺は31日にて少々記述予定。


http://setagaya-pt.jp/theater_info/2009/08/post_159.html

*1:いのうえさんの『TOMMY』がそうだったよなあ。