NHKBShi 『坂の上の雲』#9 “広瀬、死す” 17:30〜19:00

「閉塞隊員は洩れなく収容すべし 東郷平八郎」  決死隊にも人命尊重で対処


日露戦争の時、日本海軍はロシア艦隊を旅順港のなかに封じこめる作戦を立てた。そのために、湾口に老朽船を沈めることになった。のちに”軍神”とよぱれる広瀬武夫中佐(当時は少佐)などが参加した。
この作戦が発表され、実行者が募られると応募者が殺到した。閉塞隊は五隊で編成され、六十七人の兵員を必要とした。ロシア側では防備のための備えを万全にしているから、熾烈な抵抗が予想された。参加者は当然死をかくごしなければならない。決死隊だ。太平洋戦争では特攻隊とよぱれたのとおなじ任務である。
応募者があまりにも多いので基準が設けられ、まず、家族のいない者・長男でない者がえらばれた。その後は一艦ごとに何人、というような比例案分かおこなわれた、という。
私事だが、筆者も太平洋戦争末期には、甲種予科練出身の少年飛行兵の特攻隊に編入された。乗機不足のため出撃にはいたらなかったが、出撃時の心得はいろいろと教えられた。たとえば出発時のあいさつ。
「挙手して、いきますでよい」
といわれた。つまり片道だ。「いってまいります」
だと往復になる。生還を期さないのだから、いきっぱなしのあいさつでよい、ということなのだ。
旅順港閉塞隊の場合は違った。艦隊司令長官である東郷平八郎の命令は八ヵ条にわたっているが、そのなかで二条は、護衛艦に対し、
「閉塞隊員の収容に洩れたるものなきやに注意し、之が収容に努むべし」
と告げている。捜索範囲についてもこまかい指示が出されている。その底にあるのは
「参加者全員の収容」
であり、
「人命尊重の精神」だ。明治と昭和では条件や状況がちがうのかもしれないが、参加者のモラール(戦意)は圧倒的に、旅順港閉塞隊のほうが高かっただろう。
決死隊だから参加者は遺書を書いた。広瀬武夫も書いた。何通か書き、その一通はロシア人の恋人にあてたむので、サンクトペテルブルクヘ送られた。文意は、
「この手紙があなたの手もとに届くころは、戦争も終わって両国の国交も旧に復していることでしょう」というものだ。明治には日本に武士道があり、ロシアにも騎士道があった。


2010年12月11日付け中日新聞朝刊・コラム 童門冬二『先人たちの名語録』

今回、ロシア軍による広瀬の葬儀の場面がありましたが、原作にはありません。かといってドラマオリジナルではなく、その事実がわかったのがごく最近のこと。
http://www.oita-press.co.jp/localNews/2010_126550257026.html
私はもちろん、記事中の“昨年12月文芸春秋臨時増刊号に寄稿”された文章を読んで知った次第。ただ、川村氏の調べによれば、この葬儀は当時の日本でも報道されてたとのこと。それが何故忘れられてしまったのか、氏が多少の推論を述べているけど、“軍神広瀬”を作った軍の意向と考えるのが妥当でしょうね。