NHKBSプレミアム 『軍師官兵衛』#16 “上月城の守り” 18:00〜18:45

録画済。


この大河では、櫛橋左京進金子ノブアキ)は自刃かな。あ、官兵衛(岡田准一)に花を持たせる展開もあるわ。司馬さんは、左京進*1は降伏後許されて、一族郎党ともに黒田の家臣団に組み入れられ生き延びた、としてます。まあ、前回の感想で書いたように、実際の左京進は生死不明な上、志方城の戦い自体なかったかもしれんという状況なのでなんとでもできまする。
なんとでもできないのが、上月城

上月城を捨てよ。
という信長のやり方は、いかにも信長らしい。かれの思考法は徹頭徹尾、利害計算でできあがっており、計算の実行については苛烈なばかりで、なさけ容赦もない。計算の最終目的は天下布武にあり、かれはどういう計算においてもこの主題を外したことがなかった。(中略)この意識からすれば、上月城などは捨てるべきであり、その断において一片の感傷もない。
が、かれの家来である秀吉になると、必ずしも信長のようではない。
(中略)
織田氏の勢力がこれほど巨大になったにもかかわらず、なお、反織田の勢力が強く、群小の中立勢力も、織田に味方せずに反織田の勢力に味方するのは、どういうことか)
と、秀吉は考えていたにちがいない。
毛利の外交僧である安国寺恵瓊がかつて予言したことも、この機微に関係っている。「信長の代、五年、三年は、持たるべく候。……左候てのち、高ころびに、あふのけに、ころばれ候ずると見え申し候」という恵瓊の予言は天正元年のことで、この時期より五年前のことである。
(中略)
竹中半兵衛重治の子の重門がのちに『豊鑑』の筆者になるのだが、この時期、上月城を信長が捨てたことについても秀吉の心境について触れ、
「とまれかくまれ、鹿之助(鹿介・鹿之介)をすてさせ給ひしは、西国の果迄も御名を流し口惜しさ」
と、書いている。

司馬遼太郎播磨灘物語』中(講談社)“風の行方”より抜粋

秀吉が撤兵時に、亀井新十郎茲矩という尼子氏の遺臣を、決死の使者として上月城に送ってるんだけども、それはどうやら官兵衛の役目になりそうです。

*1:播磨灘物語』では左京亮。