NHK教育 『ニッポン戦後サブカルチャー史Ⅲ 90'sリミックス』第2回「コトバノパラレルワールド」 24:00〜24:50

録画済。

89年ベルリンの壁崩壊、91年ソビエト連邦解体…それまでの常識が大きく崩れ去った90年代は、日本が「新しい言葉」を探していた時代だった。
「コギャル」「ガングロ」「アムラー」「ヤマンバ」と呼ばれる女子高生たちが新感覚の言葉を駆使しながら、街を席巻。不条理ギャグマンガがはやり、今までとは、笑いのツボがどこか違う、新しいお笑いが登場、「J文学」なる新潮流も生まれた。広告のコピー表現にも、時代を映し出す変化がみてとれる。ペンからワープロへ、ワープロからパソコンへ。キーを叩けば自在に言葉が出る環境は、私たちの何かを変えた。
90年代、私たちの言語感覚は、大きく変容したのかもしれない…「90's ことばのパラレルワールド」へ、ようこそ。
【講師】宮沢章夫 【きき手】風間俊介/西田藍/大原櫻子

NHK 番組HPより

坂口安吾の『文字と速力と文学』はファーストでも引用されてたな。

私の頭に多彩な想念が逞しく生起し、構成され、それはすでに頭の中で文章の形にととのへられてゐる。私は机に向ふ。私はただ書く機械でさへあれば、想念は容易に紙上の文章となつて再現される筈なのである。が、実際はさう簡単には運んでくれない。
私の想念は電光の如く流れ走つてゐるのに、私の書く文字はたど/\しく遅い。私が一字づゝ文字に突当つてゐるうちに、想念は停滞し、戸惑ひし、とみに生気を失つて、ある時は消え去うせたりする。また、文字のために限定されて、その逞しい流動力を喪失したり、全然別な方向へ動いたりする。かうして、私は想念の中で多彩な言葉や文章をもつてゐたにも拘らず、紙上ではその十分の一の幅しかない言葉や文章や、もどかしいほど意味のかけ離れた文章を持つことになる。
この嘆息は文章を業とする人ばかりでなく、手紙や日記を書く人も、多かれ少かれ常に経験してゐることに相違ない。
私は思つた。想念は電光の如く流れてゐる。又、私達が物を読むにも、走るが如く読むことができる。ただ書くことが遅いのである。書く能力が遅速なのではなく、書く方法が速力的でないのである。
もしも私の筆力が走るが如き速力を持ち、想念を渋滞なく捉へることができたなら、どうだらう。私は私の想念をそのまゝ文章として表はすことが出来るのである。もとよりそれは完成された文章では有り得ないけれども、その草稿を手掛てがかりとして、観念を反復推敲することができ、育て、整理することが出来る。即ち、私達は文章を推敲するのではなく、専一に観念を推敲し、育て、整理してゐるのである。文章の本来は、ここにあるべき筈なのだ。
けれども私達の用ひる文字は、想念の走り流れるに比べて、余りにも非速力的なものなのである。第一に筆記の方法が速力に反逆してゐる。即ち右手の運動は左から右へ横に走るのが自然であるのに、私達の原稿は右から左へ書かねばならぬ。且その上に、上から下へ書かねばならぬ。

宮沢氏も言ってたけど、安吾にPC渡したらいったいどうなるんだろう。手書きであのエネルギーなのに。