朝日新聞社『週刊司馬遼太郎8』

歴史小説といい時代小説といっても、当然ながら現代語で書かれている。しかし約束事がある。
古い話だが、島崎藤村『夜明け前』のなかで、登場人物に将軍家を「徳川様」といわせたところ、江戸研究家の三田村鳶魚から「当時の人は公儀といったはず」と注文がついた。こんなことは一般の人には気になるまいというのはまちがいで、長年、編集者だった筆者の経験では、読者は膚で敏感に作家の実力を感じとってしまう。
時代小説は、社会の仕組みはもちろん、風俗習慣についても当時の気分のなかで人物に呼吸させるおもしろみで成立させるものだから、そこでつまずくと過去の世界を舞台にした意味がない。
ある作家が時代小説のなんでもない地の文で、ついうっかり「道がカーブしている」と書いて大きな賞を逃したという話を聞いた。筆者の体験では、武士の「面子にかかわり」という文言を「面目」に替えてもらったことがある。武士の教養は漢文であるが、メンツは現地音なので使うとは思えない。この言葉は日中戦争のころに一般化したともいう。
−そんなものだと思っていたら、司馬さんはそれらを心得た上で、そこからはみだしたものに批評を加えつつ、「余談」として盛り込む手法を発明した。
さて、内面のことととなると、カビくさい道徳に染まった心の動きをリアルに追っても、誰も感情移入できない。制約と闘いながら今日的風味に仕上げる工夫をしてきた結果、現在進行形の風俗を描いた小説はあきられても、時代小説の方が逆に古びない。芸事と同じようにシバリ=型があるものは寿命が長いのだ。
それでも吉川英治氏と司馬さんの作品を並べると、時代の反映はまぬがれがたいことがわかる。その意味では、時代小説もまた現代小説なのであろう。

“余談の余談” 和田宏

「芸事と同じようにシバリ=型があるものは寿命が長いのだ」
和田さんナイス。うん、そうだそうだ。
でも、最近は基本のシバリが理解できない層の繁殖と、固定概念に凝り固まった古びた歴オタとの板挟みで、時代&歴史小説や時代劇の作り手側の苦労がしのばれますな。女子供に媚売りゃ、低レベルと歴オタに言われ(私か/汗)、コアに作りゃ難しくてわからんと女子供から言われ(爆)。