NHKBSプレミアム 『軍師官兵衛』#24 “帰ってきた軍師” 18:00〜18:45

録画済。


信長(江口洋介)の有岡城の能興行。演目が『葵上』ですけど、戦勝祝なら『田村』とか『八島』とかちゃうん?。あ、『葵上』は怨霊物だから、だし(桐谷美玲)を出すに丁度いいわけか。てか、あれで出てくるのは六条御息所の生霊ですがな。だし死んでますがな。まあこの演出の部分は重要ではないので、どうでもいいやね。でも逢魔が時に現れる魔物として桐谷美玲の美貌はぴったりやね。
今回、色々史実とされてる部分から乖離してますけども、私的には充分許容範囲内。“三木城開城交渉は官兵衛(岡田准一)はチョクではやってないし、村重はまだ頑張ってるし、西播磨の宇野祐清、本願寺勢力の英賀も残ってるし、藤兵衛(片岡鶴太郎)はあんなヘタレじゃないし、本願寺はあんなにさっさと片付かないし………”とか突っ込んでる某ブロガーさんがいらっしゃいますが、そんなんどうでもよい。『天地人』や『江』に比べればどんだけマシか。官兵衛はワープしてないし(爆/わかるひとにはわかる)、村重はどうせ後から出てくるし、英賀も宇野氏もこの大河ドラマにとっては枝葉末節も末節だし、藤兵衛は確かに昔は頑張ってましたけども今はああだし、本願寺の後のことはここでは関係ないもんな。本願寺と和睦した、その事実がわかればいいんですよ。

本願寺方としては、毛利氏をのぞく他の連合勢力がつぎつぎに潰され、加賀や伊勢の一向一揆も敗亡して本願寺が孤立になった以上、これ以上の抵抗がむずかしくなった。それでもなお本願寺に籠る士卒の士気は高く、もし全滅を賭するとすれば、なお一年以上の抗戦能力はあったであろう。
しかし、信長のほうが講和を望んだ。本願寺攻めというのは元来織田方にとって兵力の消耗以外になく、勝ったところで領地が手に入るわけではない。信長としては本願寺の弱りを見て、政治的解決にもちこもうとした。京都の朝廷をうごかして、調停の役をひきうけさせた。朝廷が、この種の現実世界の戦いや和平のことに首を突っこむというのは、はじめてといっていい。
本願寺としても、朝廷の調停とあれば、面目としても講和を受け入れやすく、そのようにした。

司馬遼太郎播磨灘物語』下(講談社)“野火”より抜粋

大河ドラマ、いやどんなドラマにしても、何を描きたいか何を伝えたいかが重要だと思うんですよね。実在の人物を扱う以上、最低限のラインは必要ですけど、可能性がゼロでない限り、通説定説ではなく少数派の説を取り入れたって構わない。あと、あまりに細かい出来事まで描きすぎると、肝心の人間が描けなくなるでしょう。

歴史的な事件をすべて「理性的」に片付け、損得勘定で物事を割り切るような文章、論文なんていくらでも見た。
歴史を動かしているのは、「人間」である。感情があり、単純であり複雑でもあり、知性があり短絡でもあり、暴虐であり、無償の奉仕も厭わぬこともある、「人間」なのである。

前にも載せましたがある方のツイート。歴史ドラマについて語られてるわけではないですが。
「官兵衛は何やら変わったのではあるまいか?」
「ああ。以前にも増してよう切れる。怖いくらいじゃ」
今まであんま切れ者のシーンがなかったんでアレですが(苦笑)、司馬さんは全く逆の描き方なんですよね。

以前の官兵衛なら、人の話を聴き入るときは、姿勢をわざと低くし、左肩を下げ、顔は心持ちふせて、両眼だけは底光りに光らせて、渾身が耳になったような感じで聴く。感想も言い、意見も言い、最後にはみごとな結論を出す。いかにも智者という感じであったが、いまはそうではない。なにか、風に吹かれているような顔をしている。聴いているのかどうか、かつては強い磁石が鉄片をひきよせて戛と音が鳴るような聴き方をしていたが、いまはそうではない。
ひとが、そのことを指摘すると、官兵衛は、
「地獄を見てきたのだ」
と笑うだけで、それ以上のことはいわない。
が、官兵衛自身、自分が変わったとは思っていない。自分にあたらしい心境が出来かかっているということは気づいている。しかし、その心境が熟するに至らず、というより、自分でも、なにか解釈のつけようのない感じで、いらだちがある。
(いくさは、勝てばいいというものではなさそうだ)
ということである。

司馬遼太郎播磨灘物語』中(講談社)“別所衆”より抜粋

次回から松寿丸が元服して長政で桃李君でひゃっほう♡♡♡。