『Lost Memory Theatre』@KAAT神奈川芸術劇場(15:00〜)

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原案・音楽:三宅純/構成・演出:白井晃
テキスト:谷賢一/振付:森山開次
演奏:三宅純 (Piano, Fender Rhodes, Flugelhorn)/宮本大路 (Reeds, Flutes, Drums)/伊丹雅博・今堀恒雄(Guitar, Mandolin, Oud)/渡辺等(Bass, Mandolin)/ヤヒロトモヒロ(Percussion)/noattach strings by Tomoko Akaboshi (弦楽四重奏
歌手:Lisa Papineau/勝沼恭子
出演:山本耕史/美波/森山開次白井晃江波杏子

マイ初日でマイ楽。相変わらず乱暴な見方ですけども。
以下メモ的なもの。観る前:三島の『近代能楽集』っぽいの?。観た後:澁澤龍彦の世界。そしてキューブリック(Kさんはデヴィッド・リンチと言っていた。確かに)。D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous? chaosとcosmos。nomosはない。セマー。円運動から渦巻へ。渦巻から螺旋へ。フィボナッチ数列銀の三角。グアルダインファンテ。不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと。
不変の中を可変の曖昧なものが浮遊する空間。
貝の中の黄金律。月の周期による衝動やバイオリズム。周波数から成る音楽。円く回り続けるトルコ風のダンス。様々な秩序のモチーフを散りばめた間を交差する、泡沫のような記憶と夢の繰り返し。
時折、クローズアップされる、美と醜。光と闇。若さと老い。未熟と成熟。
目の前の出来事は、誰のものなのか誰のものでもないのか……となれば、誰のものでもあるのか。
ひとは物質的にはcosmosのフラクタルであり、精神的には内宇宙というものをもっている。その定型の中で生じる、大量の記憶や夢。でもそのほとんどが忘却の彼方へ。
闇から始まり闇に還る物語。闇とは全てのかたちあるものが生じる以前の原初のchaos。
私たちには生れる前の記憶もなければ、死んだあとの記憶もない。還っていくところは無音無明の中。
“Y”の最後の言葉は生への誘い。エデンの蛇のように。そしてひとは愚かにも苦しみの生存に気づかず、永遠に生を繰り返す(あらこれは仏教観だわ)。
私たちが観たものは、そんな輪廻の世界なのかもしれない。


まあ、1回しか観てないんでこんなとこです。
音楽については、素晴らしく贅沢な音を聴いてるんだというのはわかるんだけど、三宅さんのなさるジャンルは、全くといっていいほど通ってきてないタテノリな私ですので何も言えません。知ってる音で近いのはプログレか。ボサノヴァはわかりますよ。小野リサ聴くので。
ボサノヴァと言えば、耕史君のまさかのボサノヴァ。三宅さんありがとうございます。白井さんもありがとうございます。実に眼福耳福な舞台でございました。強い存在感を出さずに、でも空気にもなってはならない、何もしない狂言回しみたいな、新鮮で難しい役どころで、白井さんが耕史君に託すだけのことはあるなと。ただ、“Y”がいなくても成り立つ物語かなとも思ったり(大暴言)。いやでも、“Y”はあの最後の台詞を言うために不可欠だったんですよ、うん。それが耕史君ボイスでないといけなかったんですよ(そこか)。
もう、こっからただのオタ語りですが、耕史君のパーツの魅力はハンパないっすね。彼がジーザスだったときの、ジーザスにふさわしい迷いのないまっすぐな眼差し。今回の彷徨い続ける男の、神を冒涜するような誘惑の声。どちらにしても私たちは堕ちてゆくしかないのです(爆)。
あ、そうそう。上手でテーブル(?)に横たわって夢の中の耕史君。『眠るヘルマフロディトス』のように見えました。深い意味は特になく。